市内業者育成と発注

市内業者

道路や建物建設に関して

名称、費用の明示

子どもクラブの誕生

子どもセンターとの関係

 児童館

有志との視察(RDF)

RDFで事故の教訓

 ゴミの資源化に早い時期から関心を持っ
ていました。平成9年、生ゴミの堆肥化や、ゴ
ミ原料発電(RDF)を有志と視察しました。
 栃木県野木町や群馬県板倉町の上記施
設を訪ねたものです。当時は、町田市では
それらを全て可燃ごみとして、焼却場で処
理をしてましたが、その改善の方法や、地
域分散処理を考えていました。
 RDFについては、三重県の施設で爆発事
故が起き、その保管に難しさがあることが
判明しました。私自身は、その普及を困難
と見なし、頓挫しました。
 その後、廃プラスチックは、製鉄用コー
クスの燃料などの転換の方法などを
見て回りました。この廃プラ処理に関して
も興味を持ちましたが、町田市は廃プラ
処理施設の建設で、何度も空転する市政を
続けています。
学校で動物を飼う意義
電子政府(IT)化の考え

電子


文化施設のネットワーク


議員視察のまとめ〈功罪)

海外視察時の批判もあり

町田と相模原の連携

政令指定都市の構想は挫折


学校の統合と新設

人口増エリアでは新設

 全国では大半の自治体が人口減に苦
しんでいる中、町田市では全市的に人
口増が目立っています。全国的には極
めて珍しいことです。
 市内の古い団地の一部では人口減や
児童・生徒の減少に伴い、学校が統合
されたところもありますが、大半では教
室を増設する傾向が目立ち、ここでは
空き教室問題は皆無に近い状態です。
 新興住宅の小山ヶ丘では新設小学校
が完成しました。
 それでも、メディアの影響で空き教室
問題を質問されることがたびたびあり
ました。
 町田市内にも高層マンションが多数
建設され、中心部の学校も児童・生徒
の多さが目だっています。
自民党内での活動

 提唱・実施した事業

 町田市内(旧支部、総支部)の活動におい
て、地道な取り組みを行いました。通常の動
員活動だけでなく、新たに純粋な広報部門
の充実に努めました。
 青年部長時代には、「江戸時代の紙のリ
サイクル」(講師:田中優子法政大教授)の
講演会を企画しました。この種の文化広報
行事は始めての試みでした。本来は、この
種の事業を継続していくべきでしたが、組
織の中では、困難なことでした。
 広報部長時代には、「党支部のHP作成」
(多摩地域で最初に開設)やインターネット
時代に関する講演会をセットしました。これ
また珍しい事業でした。残念ながら、党HP
は私の退任後、閉鎖になりました。
 財務委員長時代には、地元歌手を集めた
歌謡フェスティバルを実施し、歌と芝居の組
見合わせのショー企画が好評を博しました。
 以降は、無役になり、企画の提唱ができな
くなりました。
ゴミ収集有料化と
その費用算出


 アパートに生ゴミ処理機設置

 ゴミ収集が有料化されました。私自身
はその考え方に賛成であり、人が出す
ゴミの量に応じて、その費用負担をする
べきだと思っていました。もちろん、こ
の考え自身に、反対の声もありました。
 ただし、町田市のこのごみ収集有料
化にする際に、拠点回収から個別収集
方式に切り替える考えに変えました。
飴と鞭の使い分けだったと思います。
この方式の問題点は、個別収集と言い
ながら、マンションやアパートではゴミ
置き場を設置させ、まとめた回収を行う
ものでした。それでは、集合住宅居住者
のゴミのみを効率的に収集しようとする
もので差別だと主張しました。ゴミ収集
コストを過大にしたくないとする考えを
基本に持ってきました。今もこの考えに
変化はありませんが、「覆水、盆に帰ら
ず」の事態と思っています。せめて、生
ゴミ処理の代替が必要と訴えました。
市長(推薦)候補選考

市議候補と市長候補

 

団体推薦の忌避
自分の立ち位置


 市議選挙においては、業界・団体の推
薦を受けずに戦ってきました。周りに心
配する意見もありましたが、結果的には
不足があることはおきませんでした。
 都議補選においては、一騎打ち的な
選挙であることもあって、業界・推薦を
求める体制に変えました。お世話には
なったのですが、本来的な自分には
異なる側面もあったと感じました。
 業界・団体の推薦を受けない、個人
に立脚した政治をやるのが、自分に
相応しいのではないか、そう思い返す
立ち位置に立たんとしています。
工業の存在感を高める


工業 
市庁舎移転問題と提案

 参考人招致提案と実現

 阪神大震災の発生で、旧来の今の庁
舎敷地に新庁舎を建設する構想が廃
棄され、市役所を別の場所に建設する
方針が出されました。
 議案として議会で審議することにな
り、3分の2以上の賛成を要する議案に
初めて遭遇することになりました。
 もとより、この議案は議会を大きな
混乱をもたらす可能性がありました。
私は住民意見を背景にした結論が
あるべきとの趣旨で、会派の参考人
招致を提唱しました。それ発案自体が
論議を呼びましたが、賛否にかかわ
らず賛同を得ました。議案は最終決着
で必要数の賛成を得て、可決しました。

自民党が都議補選決定
候補者選考を受ける


 平成19年10月に、自民党は都連が
都議補選の候補者を擁立するために、
町田市選挙区の候補選定を求めてき
ました。今回は党の方針があって立
候補と言う形式であり、私もその対象
に選ばれるための申請を行いました。
 現実の場では、候補擁立自体の是
非が検討されると言う状況もありまし
たが、ともかく候補を出す以外に選択
肢はないということになりました。
 選考委員会の選考を受け、12月に
都連への申請、公認と言う流れに至
りました。
都議選挑戦と落選

74,245票の支持を励みに


 選挙には3名の候補者が立ち、民主党
の今村るか候補が当選しました。直前
まで、同じ時期に市議当選をしてきた同
僚でした。
 吉田つとむの選挙の得票は74,245
41.1%)でした。当選者とはわず
かに
3,460票差と言う僅差であり、
惜敗と言えます。

 ただし、結果は出たわけですので、後
に戻ることはできません。
 新たな気持ちで前に進む以外に道は
ないとの思いを糧にして日々の活動に
つなげています。
都議選立候補を前に
議場挨拶後、市議辞職


 4月には都議補選がある日程で、2月末を
持って市議の辞職をしました。わずかに、
市議選後、1年余りでの都議挑戦ということ
は時間的にはやや難しい点があることは、
選挙戦の前後に聞こえてきたものです。
 ただし、自分では「時、至れり」と考え、辞
職に至りました。
 13年間もお世話になったことであり、せっ
かくだと考え、退職の挨拶をさせていただき
ました。この挨拶は「退職手続き」を終了し
た後で行うもので、議場を去った上での
挨拶とされていました。厳粛なものですが、
比較的に短い挨拶としました。
都議補選の主要政策に
交通問題を挙げる

 多摩都市モノレールの町田延伸

 
数十年来の懸案であり、多数の人には忘
却された課題である、多摩都市モノレール
の町田延伸を、都議選の主要テーマに選定
しました。
 町田市の過去の市政の中で、この多摩都
市モノレールの延伸構想に非協力であった
ことで町田市延伸は困難と思われていまし
た。公共交通のあり方を見直す視点を変え、
エネルギー消費軽減の観点からも欠かせ
ない施策と考えます。
高速路面電車(LTR)&
都市モノレール(2)

高速路面
ジェネリックの使用を
市民病院も協力して


ジェネリック

市営野球場について

 町田市は公式の野球ができる規模の野
球場を持っていませんでした。そこで、野
津田公園内に大きな観客席を備えた公式
野球場を作る計画の下、基本調査が行わ
れて報告書がまとまりました。
 その報告書には、野球場の上空には高
圧送電線が通っていることが記載されて
いました。そもそも、そうした障害物がある
ところに、野球場を造ると本気で考えてい
るか疑問でした。
 質疑では、さらに交通手段が限られて
いるところに大きな観客席を持つ野球場
を計画すること自体を問題としました。
 最終的に、町田市は民間企業が手放し
た野球練習場を購入しました。その球場
は公式試合をするに十分な規模である
一方で、観客席は限定的な規模でした。
交通手段を考えると最適でした。
高速路面電車(LTR)&
都市モノレール


 町田市を縦断する多摩都市モノレー
ルの構想は休眠状態でした。町田市
は立川市から町田市までの路線設定
構想に乗らなかったことがマイナスに
なっていました。
 人口が40万に達した町田市が、貧
弱な道路と自動車に頼りきるあり方は
エネルギー的にも、交通安全上も相応
しくありません。
 新たな考えとして、LRT(軽量高速路
面電車)に関心が高まりました。 路面
電車の会にも加わり、新たにLRTを開
設した富山市などにも個人的に、視察
に行く経験を続けました。
 町田市政では軽んじられてきた、交
通問題を担当する部門がようやく設置
されました。
ジェネリック医薬品の勉強

 2006年には、話題になり始めたジェネリッ
ク医薬品(後発医薬品)に関する勉強会を
企画しました。超党派地方議員の自主的
な勉強会である「東京ねっとわーく」の
定例会にセットしたものです。ジェネリック
医薬品メーカーである「富士製薬工業株式
会社」の方の協力で、ジェネリック医薬品に
関して多方面の説明を受けました。
 あわせて、診断群分類包括評価(DPC)
の導入が大規模病院で開始されている状
況に関する説明を受けました。 
 このジェネリック医薬品の普及は、国民
医療費の負担増を抑える施策としても重
要な位置を持っていることが分かりまし
た。
 後に、自分の後援会セミナーでも、この
ジェネリック医薬品の勉強をしました。
図書館とビジネス支援

図書館
 版画美術館について

 町田市国際版画美術館は、版画の収集
展示施設として全国有数のものです。ただ
し、市民にはあまり好評とはいえません。そ
の理由は、「版画」と言うもは芸術の唯一
性と相反するものであり、絵画や彫像ほど
の人気を博していません。
 また、不評要因の一つは、その学芸部門
の閉鎖性にあります。版画美術館の収集
品が貴重だとは言っても、市民の共感を
なくしてそれが存在しません。このことを
失念した運営がなされているのが、この施
設の現状です。 
 市民の観客を増やすか、この版画美術
館を母体に新たな芸術家が生まれていく
か、どちらかが必要です。私は、今も「友
の会」会員を続けています。
障がい者雇用
特例子会社の拡大


 企業に対して、障がい者の雇用拡大
は法律で決められていることですが、
現実にはなかなか進んでいません。
町田市などでも、身体の障がいを除い
ては同様です。
 他方で、企業の中には特例子会社の
方法をとって、障がい者の雇用を拡大
しようと努力を重ねているものも少なく
ありません。町田市内の中にも、その
特例子会社がいくつか進出しており、
そのネットワーク体制が確保されない
といけないものです。
 政治に身をおくものは、そうした企業
の努力を支援する、バックアップする
ことが重要だと思いました。
障がい者就労支援事業

 障がい者の施策に関して、大きな転換
がありました。自立支援の視点が取り入れ
られ、障がい者の就労が現実の課題にな
りました。可能な限りの一般企業で仕事を
することを支援する事業が必要となり、そ
のシステムや機関の存在が重要になりま
した。
 国の自立支援の施策は、様々に頓挫す
る内容を持っていましたが、障がい者が仕
事に就いた場合、その賃金に下限がない
状態でしたが、障がい者就労をそうした状
態に留めおいてよいとする発想は、今後
一掃されるべきでしょう。そうした視点で見
てきました。
橋本龍太郎氏政治団体を
政治資金収支報告で告発

総理の声も上がっていた橋本龍太郎通産
相の政治資金団体を、政治資金規正で告
発しました。数億円の収入が消えてしまっ
ていたからです。
 ところが、あっさりそのお金が出てきたと
され、収支報告が訂正をされました。当時、
さらに同団体の政治資金の流れの不透明
をしてきました。ことごとく、間違いとされ、
後日の修正をされました。もっと、きちんと
した対応であれば、後々の問題は起きて
いないでしょう。


インキュベート施設を提唱

コールセンター事業も促進


 都市間競争の時代に、市内企業の創出を
目指して、インキュベート施設・施策導入を
提唱しました。
 主張は理解されましたが、その施策が推
進はされていません。たまたま、町田市に
工業が少なく、商業の集積があったからで
しょう。そのために、行政の関心や取り組み
が薄かったことがあります。そのことは、今
もって改善の兆しはほとんど見られませ
ん。
 他方で、推奨したコールセンターの促進
は市の広報に用いられており、行政改革に
は貢献していますが、産業促進にはつな
がっていません。
電子投票選挙を現地で
次々に見て回る

 日本で最初に電子投票システムと電子投
票機を開発していたのは、
電子投票普及協業組合」(EVS)と言うもの
でした。日本の公職選挙で最初に電子投票
を導入したのは岡山県新見市ですが、その
新見市で用いられたのが、この「電子投票
普及協業組合」(EVS)のものでした。自分
ではそれなりに知っていたつもりでしたた
め、現地ではびっくりしました。
 最初の訪問以来、大きな関心を持ち、平
成18年頃まで、全ての実施例を現地で見
学しました。 そのために、第一人者の、
宮川隆義氏と非常に親しくなりました。
電子投票への関心

 一般的に「電子化」に関心が高かった
関係で、「電子投票」の存在に注目して
いました。実際には、もっともっと研究さ
れていたのですが、たまたま、ニュース
で報道していた技術の知識に基づき、
その導入を提唱しました。もとより、簡
単にそれが導入されるとは思いません
でしたが、日本で最初になればの思い
での質問でした。
 ところが、そうした私の考えよりも現
実はもっと先に進んでおり、電子投票
選挙が実施される情報を知り、現地に
(岡山県新見市)駆けつけました。
 電子投票が日本で初めて導入され
るとあって、メディアの関心は高く
100名以上の記者、10台以上のTV
カメラが入っていました。
議事録のネット化実現

ネット検索システム導入

 町田市議会では、議事録のネット化が
2段階になりました。当初は「インターネッ
ト」に懐疑的な議員が多かったために、
変則的な多数決で導入しました。平成13
年時点では、検索システムを組まずに
ネット化しました。裏には会派間の抗争
で、自民党はその導入を促進する側に
ありました。もちろん、私は促進派でし
た。
 検索システムをつけた議事録のネット
化は、私が議運委員長の時代に促進
したものです。こちらは、議会のネット
中継程の抵抗はありませんでした。
 以前の抗争を知らない世代が多く
委員になっていたことも理由でした。
なお、議事録検索システムと議会の
ネット化の所業は、促進を理解した後
の議会事務局の背後の意図でした。
視察先に民間企業

会派視察の目的地

 通常、議会の視察先は行政機関を対
象にしますが、産業振興の立場で先進
企業の視察を組み込むことを提案しまし
た。
 極小ねじを製造するユニークなメーカ
ー、一般ゴミの焼却灰を原料にして造る
エコセメント工場を会派の視察先に提唱
に同意を得ました。後に、議会全体でも
視察する機会が設定されました。
 後に、議会の委員会の視察でも、企業
の先端技術や施設を見る時代になりまし
た。視察の報告をネットで公開する時代
にするべきだと思います。
瓢箪から駒の状況で
組合議会議員になる


組合議会に監査請求

 
多摩地域の最終ゴミ処分場の地下水汚染
問題が起きていました。地下水の観測データ
記録が改ざんされているのではないかとの疑
念が出ていました。ゴミ処分場組合は、その
データの開示請求すら拒否しており、裁判で
は請求者に対してペナルティーを支払うまで
科せられていました。
 私は住民監査請求を出し、その支出をストッ
プさせることを求めました。最終的にはデータ
問題は存在なしで終息したことで裁判も組合
側に有利に終息しました。監査請求と言う非
常手段を久しぶりに使いました。
 以降、発言をしやすいように、この組合議会
に入って発言をするようになりました。
代表者会議の内容

会派幹事長が参加する会議

 議会の会議を取り仕切るのは、議長
と副議長です。それを補佐するのは議
会運営委員会です。会議以外の分野
の調整では、会派の代表者(町田市
議会は、一般に幹事長と称している)の
協議機関があります。その会議は、他
の議員を含めて、全て非公開で行われ
ます。
 そのために、その存在自体が非公式
的にあつかわれる(その決定自体を公
表していない)時もありますが、情報公
開を進める観点では、その会議の大半
は公開原則が時代にあっているのでは
ないかと、今では思っています。
子どもの冒険遊び場
一般質問とその後


中越地震と自立支援

 中越大地震の発生においても、現地を
訪れました。この時は、震災地を自動車
を使い巡りました。自分で運転して回る
と、思いがけない状況に遭遇します。も
ちろん、現地は交通止めになっている
ヶ所も多数あります。道路を迂回するの
も感も一つです。
 ネットで救援を求めている障がい者の
小規模施設がありました。地元の団体
に説明し、協力を得ることができました。
十日町市の「支援センター あんしん
代表は樋口功さん。
 大地の芸術祭のご縁もあります。
清渓セミナーの仲間
全国の有志が集い学ぶ


 
政治家ネット本の出版

 自分の考えと行動の全てをインター
ネット上に明らかにすることを目指し
ました。当時の大半の地方議員HP
を調べました。その特徴に学びまし
た。自分には及ばない政治家が数
多くある事を知りました。
 そのことをネットを通じて情報収集
していた出版社がありました。学術
系の出版が多い学陽書房からの
要請があって、政治家ネット本を執
筆することになりました。
 「地方議員のための支持者をふや
すホームページの鉄則」(学陽書房
吉田つとむ著)として、2003年に出版
されました。<アマゾンの紹介案内>
また、要約は下記をご覧下さい。
川戸裕美子さん作の要約


支援とブレーン

 政治家の応援者はいろいろあります。
もちろん、名実共に後援してくれる人物
があれば最も力強いものがあるでしょう。
 しかし、現実にはすでに既成の勢力が
支配的な構造を作り上げています。
 そうした中で、ブレーンと言う立場の人
がありますが、当事者に対して的確な
情報を提供してくれる、あるいは本人の
質問に対してアドバイスをしてくれる人
を言うのでしょう。
 これからは情報化と流動化の時代で
あり、既存の思考では想定できない事
態が起きうると思いますが、その時こそ
自分の出番ではないかと密かに期待す
るものです。
支持者とシンパ

 後援組織で足りないところは、支持者ある
いはシンパで支えられていた(いる)のでは
ないでしょうか。
 姿を現さない、突然、ここ一番で活躍して
くれる。まるで、ゲリラのような人たちがどこ
かで活躍していてくれる。ゲリラのような支
持者が応援していてくれるという期待がなく
して、選挙を戦うのは困難だと思っていま
す。
 「シンパ」というのは、より姿を現さない人
たちだと思い、その人々をしっかり増やし
ていくのが、政治の上策と考えています。
 では、その応援が間に合わなかった場合、
それはこの世界では惨敗というようです。と
もかく、アンテナを張って、自分を見極める
ことが必要と考えています。
会派の所属とポジション

 私が当選するまでは、「自民党」名の会派
はありませんでした。事情があって別の名
前を名乗っていました。私が当選した時期
に自民党名が復活しました。改選が過ぎて、
大半の自民党籍議員が合流することにな
りました。また、周りには3期目、4期目と言
う順に天変地異に等しい事態もおきました。
 そのたびに、会派内や議会ポジションが
どのようになるか、ある意味で自分が翻弄
される事態なりました。
 思うに、自分のポジションへの欲求が
あったたのだなと再認識しました。全部と
はいえませんが、数多くの経験もしてきま
したので、後は飛躍の時と自分を奮い立
たせました。都議補選の挑戦はその延長
上にあったことでした。とにかく前を目指し
て進んでいくことにしています。
請願者に圧力の疑い

 疑いをかけられました。内容は、「議
員定数の削減を求めた請願」の提出
者に圧力をかけて、取り下げさせよう
とした」と言うものです。
 自分ではまったくそうした意図は
まったくなかったのですが、この定数
削減削減問題は当時の市議会の攻
防戦の最大の課題でした。
 総務常任委員会の席においてその
質問は発せられ、私が答弁を求めら
れました。私は公開の立場を求めま
したが、議事録は差し止められての
会議でした。
 圧力の疑点はなしとの了解でした
が、当事者と合っていた(本来親しく、
たびたび会っていた)ことで疑念を
持たせたことをわびました。常に議
会は、会派間や会派内の抗争があ
ることを忘れてはいけない教訓でし
た。
市議4期連続当選

 私にとって、町田市議選は5度の挑戦で
した。落選の選挙は4位、初当選は33位、
2期目は29位でしたが、3期目には6位、
4期目は5位にアップしました。知名度が
増し、支持が安定したものだと思います。
 自分では、より幅を広げたお付き合いを
して、支援が深まったのだろうと思ってい
ました。
 ただし、その一方でどこかで謙虚さに
鈍さが出ていた可能性も否定できませ
ん。その意味では、都議補選の落選は
自分自身を再度奮い立たせる発奮材料
でした。
政治家への口利き要請

 政治家が頼まれる口利きとは、入札、
就職、公営住宅の入居が三大柱では
ないでしょうか。以前は、交通違反と
いうものがありました。もちろん、金品
の授受があれば、即、刑事事件という
ことになるでしょう。
 「もみ消してください」というFAXをも
らった時には笑いましたが、当事者に
とっては事業の盛衰にかかわる問題
かも知れませんが、こうした内容のも
のには係わり合いになれません。「君
子、危うきに近寄らず」でしょう。
レスパイト事業について

請願を通すための行動

 住民請願の提出には紹介議員1名が
必要とされます。つまり、提出時に署名
が1人分が欠かせないということです。
私は比較的に住民請願を頼まれる例が
少なく、議会ではその都度、中立的に審
査する立場を多くとりました。
 時として、成立の見込みが薄いケース
があり、自身が奔走する場合がありまし
た。障がい者の家族のレスパイトを行う
事業を市政に採り入れる請願は困難で
した。とにかく、会派への理解が第一と
考え、紹介人にも奔走していただきまし
た。この取り組みの縁は、今も様々の
ところでつながっています。
採決:不本意な反対

委員会判断と逆の対応


 会派では都市計画税の減税を目指し、条
例の改正案を提起する考えがまとまった時
期がありました。私が所管の総務委員長の
時で、自民党会派が一本化した時期でした
が、税率の据え置きを図る市当局と大きな
攻防になりまいた。
 他の委員会と合同審査となり大掛かりな
委員会審議となり、議員同士が提案・質疑
・討論する本格的な委員会となりました。
会議では共産党が賛成し、過半数を超しま
した。巻き返しがあり、本会議では両案を否
決する話がまとまりました。結果的に、私ま
で会派提案に反対の立場をとらされる羽目
になりました。次の議会で妥協案を成立さ
せること優先した苦渋の判断でした。
阪神大震災現場に急行

震災ボランティアとして

 平成7年1月17日、阪神大震災が発生
しました。現地への支援物資送付にかか
わる一方で、現地に出向くことにしました。
以前に、ワンダーフォーゲルをっやてい
ましたので、リックと寝袋姿は得意であり、
野宿も野営も平気な体でした。
 現地では路上で野宿、あるいは救援セ
ンターを基点に、現地ボランティアを行い
ました。なお、同僚議員では、故古宮
とし男氏、大西宣也氏がそれぞれに現地
に駆けつけました。全員が、それぞれに1
人で被災地に行ったことが共通でした。
議会の視察に関して

 町田市議会の委員会視察では視察内
容の報告書に議員の記述がありません
でした。
 議会改革別委員会ができた機会に、こ
の問題をオープンにし、改善を訴えまし
た。今は、議員自身がその視察事項を
それぞれに記述した報告書を作成して
います。議会改革委員会で準備し、次期
の議会運営委員会の視察から実施して
います。
 本来は、それを公表されるネットでオ
ープンするべきだと思っています。
傍聴席への資料配布

情報提供の議会

 一般に地方自治体議会の会議は公開され
ていますが、資料を傍聴者が手にすること
はめったにありません。
 たまたま多摩市議会で傍聴席に議員が見
る資料が配置されていましたので、町田市
議会でも資料ファイルを配置するように提案
し、皆さんの賛同を得ました。
 今では、極普通に会議資料が傍聴席に
配置されています。
 後に書いている議会のネット中継ともとも
議会の公開に関する取り組みでした。
一般質問方式を改善

 市民に分かりやす質問


 質問時間を延長し、答弁込の方式に改め
ました。質問と答弁の両者に(特に、答弁者
の)冗長さを減らす工夫であり、傍聴者
(ネット導入を見込んでいた)に分かりやす
くするのが目標でした。
 質問を制限するのではないか、という見解
も見えましたが、全員に理解を得ました。
 導入すると、一般質問の流れが見え、傍
聴者にも好評でした。町田市議会に定着した
ものと思います。
議会運営委員会運営

妥協でスムーズに協議

 議会運営委員会は、議会運営の裏
の舞台です。各会派のメンバーがそ
れぞれの立場や主張を持って参加し
ます。昔は全員合意で会議を進めて
いたようですが、近年は多数で決する
こともあります。
 3期目当選後の委員長に就任して、
懸案の処理を目的に、運営の効率化
を進めました。まず、質問方式では、
会派の理解を得て、代表質問制の導
入は見送りと早々に決定しました。
総務委員会の運営

委員長として裁決

 私が総務委員長を務める時に、市民が
利用する市民センター会議室を有料化
する機運があり、その反対請願が出て
きました。なかなか議論がかみ合わず、
審議は継続審議を繰り返しましたが、
意を決して表決の時期を迎えました。
 賛否が半数づつとなり、委員長が裁決
をして、請願を退けました。委員長は現
状維持の判断が通常と聞いていました
が、受益者負担の原則の面から決めま
した。後々、利用者からはかなりの反発
を受けました。
委員会発言について
月額報酬を日額に


 決算委員会において、健康保険運営
協議会などの委員報酬が月額とされて
いることを問題視してその改善を求め
ました。開催月がない月もあったから
で、審査の報告に盛り込みました。
 翌年、総務委員会でその改正条例案
が出されると、反対する異論もでました。
理由は、委員になるには相当の準備も
必要であり、日額の費用弁償では不足
ではないかとする意見でした。
 最終的には、行政改革の観点で改正
案を認めることになりました。
条例を変えた請願

 テニスコート使用問題

 市内のスポーツ施設が、全域一斉
のコンピューター予約になりました。そ
のために条例改正も行われました。
実際にはローカルで使用されるケー
スもあり、テニスコート使用の多様化
を求める請願が出されました。
 委員長報告を含めて質疑をするな
ど、議会内の逆転を目指しました。
自分にとっては始めての分野でした
が、本会議表決で請願を通すことが
できました。
本会議の緊急質問

 通常の議会質問は、事前にその質問
項目を市の当局に手渡して、事前にヒ
アリングを受けています。一部の自治体
では、その質問のやり取りを事前に交わ
し、文書を読みあう本会議の自治体もあ
ります。町田市&議会は健全です。
 緊急に問題が発生した場合を想定し
て、「緊急質問」を設けていました。その
制度を使って、市役所内に「労金CD]が
議会を通さずに設置されていることに気
づく、緊急質問で追求しました。
入札直前に落札者を
ネット公表後、質問


 議会質問のハイライトは、建設関係の入
札の問題でした。入札の発表直前に落札
業者名をネットにアップしました。訂正が
利かないように、メールマガジンのマグマグ
にアップしました。それを市の契約担当部
門に通知したわけです。予想通りに、指摘
した会社が落札していました。
 情報元を秘匿したままで、議会の質問を
行い、市内業者が含まれていないことで官
製談合の可能性を指摘しました。
 落札前にこうした談合情報があった際に
は、入札延期が行われることになりました。
議会の初質問

 町田市議会の一般質問は、議員の
個人質問の形式でした。望んで議員
になれたわけですので、最初の議会
から質問に立ちました。
 長年の思いを込めて、サラリーマン
のための施策に関して質問しました。
都心から町田に帰ってきた通勤サラ
リーマンの休息と英気を養う施設が
必要だと主張しました。
 市長からは、本気で相手にされずに
残念な思いが残っています。
市議選にも落選

 平成2年には衆議院選挙の落選に続
き、市議選にも立候補して落選しました。
前の衆議院選挙で推薦を受けた「進歩
党」(後に解体)の公認ということにな
りましたが、次点に終わりました。これ
で、都合4度目の落選でした。
 この「進歩党」は「新自由クラブ」解体
後も、代議士の田川誠一氏が継続した
ものでした。若干の地方議員がありまし
た。それらの人とは、一部に付き合いが
未だに残っています。
都議秘書時代の活動

 阿部都議の後援会の方、地域の方と
有意義な交流ができました。ただし、
阿部都議の再選がならなかったわけで
すから、本来の秘書としての職務がで
きたとはいえません。
 後援会の組織化において、企業家の
支持は拡大しましたが、女性のグルー
プは少なかったと思います。既存の組
織に参入して支持を取り付けるすべに
足りない点がありました。私にとっては、
感謝の中に活動していました。
 なお、当時の後輩秘書の山口拓氏が
区議、都議となり、頼もしく都政に貢献
しています。
サラ新事務局を離れる

 私が以前に秘書をしていた八木大介
議員がサラ新党を離れる事態になり、
私の居心地は極端に悪いものになり
ました。ある意味、身体がきわまり、事
務局を退職することにしました。それ
以降は、独自に活動する道を選択しま
した。
 この時期には、サラ新党に新しい試み
をする意欲はなく、その次の参議院選挙
で当選者を出すことができないところま
で落ち込んでいました。私自身のその
状況に未練が失せてしまっていました。

消費生活センターの活動

 消費生活センターの事業の一つに講師
を招いた「講演会」の開催があります。ど
のような講師を招くか、それを消費生活セ
ンターの運営協議会委員は検討します。
委員の意見を持ち寄ると幅広い知識を持
ち合わせることになり、講師選定になりま
す。
 消費生活センターでは特に、環境問題
に意識が高く、自然素材、リサイクルの
観点を重視した講師選定をしていました。
 シャボン玉石鹸社長森田光徳氏(故人)
や古着リサイクルのナカノ株式会社社長
中野聡恭氏などは特に、印象的でした。
おかげで、私も自分の主催するシンポ
ジウムで講師をお願いし、好評だって
ことがあります。
消費生活センター参加

 当時は「消費者センター」と言っていま
したが、この行政と市民が一体になった
運営協議会の委員に加わりました。以
前は議員の参加も多かったとは言いま
すが、当時はほとんど見かけませんで
した。徹底したボランティア主義の伝統
ある活動であり、議員との両立が難しい
団体でした。
 私は保守系(自民)議員では始めての
参加で、終始不思議がられていました。
それくらい保守系では「消費者」の言葉
にアレルギーがありました。
 ここでは、講習会や講演会、あるいは
視察と勉強の機会も多く、それらのサポ
ートも数多く体験しました。
吉田つとむ 過去へのこだわり
現場を知るゴミ収集体験

 ゴミ収集の体験を行いました。市の現場
職員から非公式に要請を受けたことが
きっかけでした。夏はお盆明け、冬は年末
や正月のゴミ出しの繁忙期に乗車、収集を
続けました、ある日突然、「ごみ収集作業」
素人に乗車されては支障をきたすので、乗
車を止めてくれとトップから言われました。
また、担当部署からは乗車拒否され、不思
議な週末でした。その時に一緒に車に乗っ
た職員の皆さんとは今も仲がよい関係です。
 他方で、ダンボールや新聞の回収を行う
福祉団体の車にも以前に同乗したことがあり
ます。また、国会議員会館の収集作業もした
こともあります。私も周りには、貴重な現場体
験を斡旋してくれる人がそろっています。
マンション建設問題で孤立

 町田市は通勤者に住宅地として好評で
あり、そのためにマンションが建設される
ことも多くありました。当初は議会の中は
容認派が多かったのですが、マンション
建設が大型化し初めて様子が変わりまし
た。
 私は状況を見て、建設回避が困難と
見た場合は、条件闘争にするべきだと
何度かその立場をとりました。特に、
「長谷工」物件では、住民の人から批判
を受けました。「政治家はマンションがで
きる前と、入居者が出てからは態度が変
わる」と再認識した次第です。もっと、そ
の基になるのは住民の変化でしょう。い
まだ、縁が復活しない人も大勢です。
廃プラ中間処理問題で孤立

 「廃プラスチック」を中間処理して、資源
化する発想は今も欠かせない事業だと考
えています。ただし、それには規模を分散
しての住民合意が必要だと考えています。
 町田市にとっては3度目の正直の事業。
この期をはずせないと言う行政の尻馬に
乗り、住民から総すかんを喰う羽目になり
ました。最終結果は、ただ1人の建設容認
派となりました。
 町田市は、この廃プラ中間処理を未だ
結論付けられないため、市民が多額の
ゴミ処理負担(指定ゴミ袋購入)を強いられ
ており、廃プラもゴミとして排出しています。
ゴミ行政では停滞と考えています。

人事に弱し、役に薄く

 会派では、人事は大きな関心事で
す。最初はただただ一生懸命に議員
活動に専念しておれば満足でしたが、
役職を担うことでその任を果たす役
目もあると理解できてきます。
 ただし、人事は人脈、敵が多すぎて
は希望しても役職に就くこともかない
ません。私はその典型かの理解。
 そうこうしている内に、所属会派は
衰退の道に入っていました。思うに、
自分は人の人事に協力することが
似合っており、自分がそれを期待す
るのは難しさが多すぎることが理解
され、自分でやれる選挙で争う道が
似合っていると再確認しています。
農業保護と米の輸入プラン

 日本では農業保護として、米の減反政策
を採っていましたが、先の佐藤泰治氏は、
カルフォルニア米を日本に持ち込みました。
ただし、手荷物分を除いて、輸入がストップ
をかけられ、米は処分されました。
 サラリーマン新党でも、カルフォルニア米
の試食会を行い、若干の関心を呼びました。
 その後、外圧が強くなったこと、たまたま
日本で不作となり、米の輸入は制限つきで
実施されています。ただし、国内の需要が
極端に減少し、米あまり減少が続いていま
す。
サラリーマン新党の選挙

 「給料日の怒りを国会へ!」のスローガ
ンで、10名の候補者がそろいました。
候補者の実名を上げて、最初に発表した
のはこのサラリーマン新党が最初でした。
 一見、泥縄式にできたかのような「新党」
は周到な準備の下に作られていました。
 バラエティー性を持つことが優先し、私も
候補者の一員になりました。
 全国遊説の前にも、リハーサル的にほ
ぼ友人と2人で九州一周の遊説を行いま
した。結果的にこの取り組みは、小戦力で
戦うことにも強くなれました。2名の当選者
を出す199万票を獲得しました。
参院選挙に比例区導入

 いよいよ、昭和58年には参議院選挙に
政党が選挙を行う比例区の導入が来ま
りました。
 この時こそ、知名度や組織力がない
無力と思われていたサラリーマンが力
を発揮出来るのでないか、そのように
極少数の人が期待を持ちました。こう
して、「サラリーマン新党」に至る構想
が誕生することになりました。
 その頃は、日々、議論をすること自体
が楽しいことでした。政党創出の運動が
明るさを生んでいました。
会社整理で転職

 縁があって、印刷関係の仕事に転職
しました。もちろん、技術的な能力が
あるワケでなく、「営業」と言う仕事で
す。
 ただし、まったく別の分野でもあり、
無我夢中で仕事に向き合いました。
 この会社は、他の会社に吸収される
と言うことで、また、退職の道が待って
いました。この時も、「独立」の道が
あったかも知れませんが、またも、選
挙の勉強に最適だと納得していまし
た。
選挙運動を全国に学ぶ

 友人らと、社会改良の政治やその
運動はどうあるべきかを研究しまし
た。私はもっぱら、その社会的な萌
芽や思想的に共有しうる政治を見て
まわっていました。休暇を使い、全
国を回りました。特に、自・社の構造
に対立した第3勢力の運動を研究
しました。
 とりわけ大きな業界や団体の勢力
に対抗して、地道に草の根運動を続
ける選挙に注目しました。茨城県の
知事選挙、佐賀県の衆議院選挙に
学びました。
保守政党の創出運動

 世界観の遂行のためにある政党で
なく、自由と民主主義のもとに複数の
勢力が相互補完的に競い合う立場で
政党が作られるべきだとしました。
既存の政党では、その役目は困難
とし、新政党を創る運動を友人らと
起こしました。最も、私にその思想を
全面的に記述する能力はなく、友人
がその役目を担っていました。
 私は、<新たな国民政党の創建を
めざして 「国民政党期成同盟」呼び
かけ文書」>
を携え、さらに全国を回
りました。労多く、実を結ぶことはあり
ませんでした。
社長インターンシップ主宰

 「社長インターン」を阿部善博相模原市議
の協力を得て始めました。独自に企業の経
営者とネットワークを結び、学生に参加を呼
びかけるものでした。
 拠点を町田・相模原としたため、なかなか
参加者を求めることが困難でした。ただし、
経営者の方はよくお付き合いいただきました。
 この構想は、平成10年のインターン生
出雲充さんが大学卒業後、「社長のカバン
持ち」のプランしたことの逆輸入でした。自
分で企画も、勧誘も行うとなると大変な手
数がかかるものでした。とはいえ、この作
業は近隣大学にも自分のネットワークが
広がる縁をもたらしました。
 この「社長インターンシップ」も立ち上げる
考えを持っていますが、バックアップを得る
ことが前提で次回を迎えたいものです。
議員インターンシップ

 平成10年から、学生を議員活動の研
修生として受け入れる「議員インターン
シップ」を行っています。友人の天目石
要一郎氏(武蔵村山市議)の誘いで参
加したのですが、後には独自に大学と
タイアップして、「単位科目」取得事業
にも力を入れました。
 インターンを入れる、特に同行する時
は自分が緊張を持って活動することに
なります。その体験者の大半はすでに
社会人となっていますが、今も交流が
一部に続いています。
 私が浪人となって、インターン希望者
が減りましたが、継続の意思を失っては
いません。どうぞ、意欲ある人は申し込
み下さい。
カネミライスオイルで
油症が発生


 米の倉庫業を行っていたカネミ倉庫
が作っていたライスオイル(米ぬか油)
の製造過程でPCB混入(後にPCBに
混入物が入るとされる)が起き、それに
よって、油症とされる病状が消費者の
中で数万人に発生しました。
 2世にもその影響が起き、その痛まし
さが強まりました。この油症事件では
その法的責任がカネミ倉庫に限定され、
結果として患者救済が制限を受けまし
た。そうした経緯もあり、社会的に忌避
される傾向も出ました。
 直接交渉を求めた患者さん支援で
工場前の座り込みに少人数で同席した
経験があります。
選挙運動へのかかわり

 机上の選挙運動の勉強や、先達の話
を聞くことから、現実の選挙運動にかか
わることになりました。以前に縁ができた
地元の衆議院議員の選挙運動員になり
ました。厳密には「ボランティアスタッフ」
ということになるでしょう。時期的に衆参
ダブル選挙になり、参議院全国区選挙
にも少々かかわりました。
 この議員は大組織を有せず、国会の
質問で名声を博するタイプの政治家で
した。私が見た限りでは、有権者各層に
関しての感覚が鋭く見えました。
ヨットを購入、手放し

 最初の仕事の退職金でヨットを購入し
ました。ヨットと言っても、クルーザーで
はなく、ディンギーでした。友人と2名で
購入して、ハーバーの契約もしました。
途中で、艇をY16 に乗り換えました。
 東京に出るまで、このヨットでは楽しみ
ました。他に趣味が少なく、特にスポーツ
分野はほとんどしていませんでしたので、
この間、楽しく過ごしました。
 約束で、途中でやる意思がなくなったり、
できなくなった時は「権利放棄」としていた
ので、そこで海の時代は終わりました。
マイカーを持つ生活

 当時は自家用車をマイカーと呼ん
でいました。20歳代の中盤でその
マイカーを持ちました。行動に便利
なように購入したのですが、持つと
ランクが上の車がほしくなり、30歳
ではエアコン付きの新車に乗るよ
うになりました。
 政治行動に関して、資金や時間の
余裕ができ、レジャーを楽しむ時間
が生じていました。洋服もデパートで
「押し付け販売」も含めて、かなり購
入していました。今を含めて、もっと
も裕福な時期でした。生涯、この時
の生活を復活させる考えはありませ
ん。
政治家の研修グループ

 新たな発見をしたり、新しい知識を得
たり、進んで研修の場に身をおきまし
た。党や議会が用意した以外に、自主
的に講師を見出すセミナーや研修会が
魅力でした。
 同じ、「東京」と言うレベルでの情報収
集・研修のグループとして、「東京ねっ
とわーく」に参加し、また企画してきま
した。
 他方で、全国の議員・政治家が研修
するグループとしては、「清渓セミナー」
があります。共通のテーマを全国各地
の人たちが集まって話したり、それぞれ
独自の課題を認識しあう中に新たな
問題点を見出してきました。
会派の集合・離散・抗争

 私が所属していた自由民主党の会派は、
常に集合離散の日々でした。私の初当選
時にも、複数の所属議員が無所属議員な
どと他の会派を構成して最大会派を構成し
ていました。私と同期性が会派入りして、よ
うやく安定期を迎えました。
 それもつかの間のことで、会派が大きくな
ると、また、離脱者が出る事態がありました。
それも、残ったほうが少ないという状況でし
た。
 それでも議会の代表者を出していました
が、ついに自分が幹事長を終える時点で、
市議会の最小会派の転落しました。つぃに、
そのことをカバーできない事態に苦悶しま
した。
 思うに、つくづく自分は多数派には縁がな
いのだと納得していました。そのことも、自
分が新たな道を探る一因になりました。
情報公開請求を行う

 町田市に情報公開制度ができるのに
合わせ、市長交際費の公開請求を行う。
情報公開請求はそれが始めてのことで
あった。その請求で交際費使途の大半
が公開されました。
 この公開とは別に、制度を使わない
方法で事前に、市長交際費の一部公
開を実現していました。
 これとは別に、政治資金使途の調査
を続けていました。その一環で、橋本
龍太郎元総理(当時は、通産相?)の
政治資金を追求しました。簡単に事実
を認めて、訂正が行われました。
旧縁と地方体験

 旧縁とは20年前の知人に合い、その
人物にお世話になることになりました。
相手は60年安保時の闘志であり、そ
の道では有名人でした。
 すぐに、九州別府市に出向きました。
そこで、地方の政治抗争を目前で見る
ことになりました。市長の交代があり、
新市長は特異な後援組織を持ってい
ました。その体制がどのようなものか、
人口10万人以上の都市では珍しく、
市長のリコールが起きることになりま
した。
政党事務局の仕事

サラリーマン白書の発行


 新党の仕事は、議員経験のない議員
と民間企業の経験しかない私などで構
成されるわけですので、実際には右往
左往でした。
 私は選挙に出たい人、新しい取り組み
を持ち込んでくる人を重視して対応して
いました。そうした中で、参加者の中に
著述に優れた人物があり、党の本を出
すことになりました。結果は好評でした。
 一般の仕事では、所属候補や推薦の
候補の応援に出かけることが大半の仕
事でした。町田市もその一つでした。
八木参院議員の秘書

 私はサラリーマン新党の八木大介
(本名:木本平八郎)議員の秘書に
なったわけですので、それに専念で
きればよかったのですが、党務と兼
任と言う立場で、党務では青木代表
の指示を受ける立場になりました。
現実には、そうした行動を使い分け
できないことが往々にして発生しま
す。
 どちらを選択するのか、一つの課
題で別の方針が出ることがたびた
びありました。
 八木議員とは、途中で合わないこ
とがおき、私は党事務局に完全に
移ることになりました。
戦記戦争論を読みふける

 中学時代より、戦記や戦争論を読みふけ
りました。戦記はアメリカを、戦争論類は
中国、ソ連、キューバ、ベトナム、ユーゴ
などの書物を数知れず読みました。もっと
も中国の場合を含めて、現代のものばか
りでした。
 中でも、キューバのカストロの戦法、
ベトナムのホー・グエン・ザップ将軍に関
するものは気が入って読み込みました。
それ以外では、マイナーとされる政治
運動に関心を持ち、クロンシュタット反乱
などに特に注目しました。
一流のスポーツと文化

博多は鑑賞に最適

 福岡市の平和台陸上競技場で行われ
るのが、朝日福岡国際マラソンです。当
時、国際と名がつくマラソンは、ほとんど
なかったのではないでしょうか。世界で
も名だたる名選手が福岡市内の名コー
スを走っていました。
 また、平和台球場では、往年のライオ
ンズの選手が日本一の覇を競っていま
した。稲尾、中西、豊田、大下以外にも
出場選手の全員が一流のチームとして
巨人軍を圧倒していました。
 文化的には、金印に始まる九州王朝
の歴史遺産。装飾古墳群。今に至るも、
「九州王朝説」を主体に歴史を見る観
点です。
少年時代の映画

思い出深い図書と映画

 少年時代は感受性が高い少年
でした。アイヌの差別を扱った
「コタンの口笛」や、貧しい炭鉱を
題材にした「にあんちゃん」に涙
しました。
 少し大きくなって、「本」ども読み
ましたが、映画の印象が一番
でした。この時の感受性は今も
忘れ得ないものです。
幼年時代の遊びと学び

幼年時代の遊び

 幼年時代は大きな矢部川のほとりに
住んでいました。本来は水泳が上手に
なっておかしくないのですが、今に至る
も苦手の一つです。小川では魚採りに
いそしんでいました。(食用)
地元成瀬スイミングプラザの会員に
なっていますが、まったく泳ぎにい
くことがありません。

地域とのつながりと交流

 地域には日常生活があり、その行事に
はできるだけ長い付き合いを求めてきま
した。もちろん、全てのところでそれがで
きるわけであなく、より深い関係のところ
もあれば、そうでないところもあります。
 結果的には、たまたまできた縁のなく
さないように務めて来たに過ぎないかも
知れません。そうした中で自然に自分の
その一員になりきって同化する立場を貫
いてきました。そのことを評価されるか、
そうでないかこれまた自分には分からな
いことです。
 その一方で、団体(特に、業界団体)と
はさほど強い縁は持ってきませんでし
た。それは、自分の行動や意見を左右さ
れることをできるだけ避けたかったため
です。あくまで、一般の住民を基礎にし
た思考でいようと考えました。
インターネットへの傾注

政治家HP評価サイトでトップ

 市議1期目の終わりには、インターネット
に傾注する時間と手間を多くしています。
いち早く情報収集する手段として、自身の
情報発信の場として友好だと考えたため
です。
 先走りをして、2期目はインターネットで
得票を倍増すると宣言しました。結果は
微増でしたが、やる気はました。貴重な
協力者もあり、膨大な時間を費やしまし
た。励ましもあり、情熱と思考を重ねると
、政治家HPサイトで表記の高い評価を
得ました。自信を持ち、さらにステップ
アップしていきました。4期目終盤以降
は、多忙で取り組みを減少しました。今
は再度、多くの手間をかけ、時間を割く
ことにしています。
本会議討論(談合問題)

 談合問題では、その排除の目的で一般
質問や質疑を行ってきました。建設業分
野の談合で公取から課徴金を課せられ
たものに、損害賠償を求める議案が出
た際、自民系で賛否の討論を展開しま
した。私は損害賠償を求めることに賛成
の討論をしました。
 他の会派は討論をせず、採決では複
数の会派において、会派内での賛否が
分かれると言う珍妙な結果が生じました。
デリケートな内容で合ったのでしょう。
その採決で、町田市が損害賠償請求を
することが決まりました。もちろん、すん
なり業者側がそれを認めたわけでなく、
裁判もおきましたが、「公取」判断は消せ
ませんでした。
後援組織の体制

 政治家の大半は、後援組織を持って
います。いわゆる政治家後援会がそれ
にあたります。
 私の場合も、衆議院選挙に立候補し
たころからありました。思い返せば、当
選1期目を目指したころがその体制は
一番整っていたようです。会長をはじ
めとする役員体制が個別の人がその
名前を連ねていました。以降は、トッ
プを始め、各所に欠員が出ていまし
た。その原因は、私自身にあったとい
えます。特に、都議補選以降はその
体制を組むことすら困難になってい
ます。
 ただし、運動、活動は継続発展して
おり、世間で言われる政治家組織の
形態とはかなり特殊なケースを作って
いると言えます。
土木資材販売の現場

 次いで、土木資材販売の仕事につき
ました。この仕事は今までの経験とは
違った迫力も必要でしたし、辛抱も要
りました。その分、新たな勉強も重ね
ました。資材以外に、土木建設の機械
にも触れることがあり、しかもそれを自
分が販売することになりました。地べ
たに胡坐をかいて、人と話こともでき
るようになり、良い経験になりました。
 この会社に入った縁は、私が小林
喜幸氏(専務)の政治目標に関心を持
ち、その協同に誘いを受けたためです。
本来が、政治優先でした。
オイルショックと会社整理

 好調を続けてきた博多人形業界は、
第2次オイルショックの時期を迎えて
そのかげりを見せかけていました。
 私がいた会社は会社整理をして、
閉業することになりました。30歳の
ことで、あまり先の仕事のことは考え
ていませんでした。後になって考える
と、「独立」と言う選択肢もあったかも
知れませんが、それほどの商売の知
恵と意欲がありませんでした。
 むしろ、選挙の実地勉強もしやすい
と考えました。
反体制運動の終焉

 一世を風靡したと言うべきか、70
年安保反対の運動が終焉しました。
学園紛争をメインに反体制運動の
嵐が吹きましたが、各地で学園封
鎖が解かれ、旧体制の権威が復
活する様相でした。
 こうした中で、反体制派セクトの
内外でゲバルトや粛清の嵐が押
し寄せ、陰惨な事件が続き、反体
制運動は終焉していきました。
 いち早く、この傾向を考慮し、その
限界性も理解し、現状の改良、改善
の政治を研究する立場に移りまし
た。共産主義の勢力とは無縁のア
ナーキズムの思想であったことが
その転換にスムーズであったもの
と考えています。
博多人形と言う工芸品

 工芸品の世界に育つ目

 私は「博多人形」の会社に10年以上
務めていました。創作に能力があるわ
けでなく、卸販売と言う営業職でした。
ただし、「作家」や職人さんとはその
仕事場に訪ね、新製品の傾向や売れ
筋の話から、工芸品全般に関する話
題を語っていました。
 販売の分野では最先端にいました。
デパートからホテル、家具センター
から人形屋、結婚式場から観光物産
店までを駆け回っていました。
 そうした時に、他の人形や陶磁器を
含む様々の工芸品を鑑賞する機会に
恵まれました。
前回の支持に感謝 捲土重来の戦いへの共感に感謝  

 かくして、吉田つとむは、都議挑戦を目指す浪人時代に突入しました。平成18年の4期目市議選、さらに平成19年の都議補選と、2年続けての選挙をしたわけであり、私を取り巻く環境は厳しいものがあります。しかし、新たな期待に応えて、捲土重来の心を秘めて、日々の活動を展開しています。
 この戦いに、前線で共に行動していただく方、影になって支えていただく方、あるいはこれから支持をしていただく方、さらに、距離はあっても期待を持って見守っていただく方に感謝し、頑張っていこうと思い、初心貫徹の姿勢で頑張ってまいります。

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吉田つとむ saasboard版 top 

サラリーマンの政治参加

 「サラリーマンに必要経費を認めよ」と
いう裁判を起こしている人物がいました。
後にサラリーマン新党を起こして参議院
議員になった青木茂氏がその人です。
その青木氏は、前の参議院選挙で全国
区に出て落選していました。
 先の小林喜幸氏は、その青木氏を担
いで、新しい運動を起こそうと思っていま
した。「サラリーマン同盟」、納税の観点
で、「日本納税者連合」と言う運動を、
九州では推進していくことになりました。
九州は博多の地で、サラリーマンの政治
取り組みが始まりました。
反権威主義と漸進主義

 急進主義から漸進主義に転換

 反体制的な運動に身をおいていま
したが、眼前にある公害患者の救済
などに関して、社会体制の変革を待
てとする思想には違和感が生じ、
漸進的な手法で社会改良をやるべき
だとする思想に共鳴しました。では、
その思想をどのように実現していくべ
きか、このテーマを今に至るも、ずっ
と持ち続けています。つまり、中央集
権の権威主義には組しないとという
立場は変わりません。
情報公開運動に参加

 1980年3月にできた「情報公開法を求め
る市民運動」に、長く参加してきました。
「開かれた政治」の確立が、もっと重要なこ
とだと考えてきました。市長交際費の公開
に始まり、ビル建築の落下物調査の公開
請求などを行ってきました。後年では、
デジタル情報の公開、データの市民利用
に重点をおいてきました。
 議員当選後は、議員活動の自己開示に
務め、資産や議員報酬の状況をネットで
公開して注目されました。浪人の今は、就
業は求めずに活動一筋の毎日です。
東京ねっとわーくで勉強

 
阪神大震災被災者と
友情の救援座り込み


 阪神大震災の被災者である友人が、
その救援を求めて日比谷公園で座り
込みを始めました。2月と言う厳寒の
中でのことであり、テントも使わずに
狂気を感じる所業でした。
 周囲のビル街からダンボールを拾い
集め、風をしのぐ準備をしました。現場
を見ると、自分が立ち去るわけにはい
かず、自分も野宿の準備をして友情の
座り込みを開始しました。
 少ない人数の行動であり、なかなか
思いが国会にはつながりませんでした
が、二階俊博代議士(現自民党総務会
長・当時は新進党)の手配で、国会で
取り上げれ、10泊を越す所業でした。
4期目と新市長誕生

 市議4期目はその選挙では、党の
所属候補者確保で奔走しました。一
定の条件は満たしましたが、会派の
加入者獲得ではさらに苦境に落ちい
りました。。自民党が議会内で果たす
役割は極小にまで低下しました。
 4期目は自民党が公募推薦した石
阪新市長が当選しましたが、元の横
浜市役所内におけ政治資金集め活
動問題などの議論、あるいはその議
会対応に追われました。
それが横浜
市(政)の固有の問題であっても、候
補決定にかかわった以上は、問題か
ら遠ざかる立場はとれませんでした。
結果的に、自分の議会発言はかなり
批判を受けるものでした。
自民党公認の市議選挙

 前回の次点の選挙から、着実に支持
を広げていたつもりでしたが、いざ選挙
が近づいてくると、大勢のライバルが出
現しました。
 また、無所属の立場から自民党に入る
ことにしたのですが、あくまで多数の反
対がありました。そうしているうちに、衆議
院選挙があり、国会では自民党が野党に
転落していました。市議選を自民党公認
で出る候補者は、私を含めてわずかに
4名となり、一見難しかった「自民党公認」
は簡単に決定しました。その市議選挙は、
辛勝ながらも初当選となりました。
議会にネット中継導入

 インターネット中継と議会にカメラを入れ
ることの導入まで何年も要しました。段階
論的にTV中継だけでも導入しようとしまし
たが、巧妙な抵抗にあいました。期数をま
たいでの導入過程でした。
 日本では最初(?)にネット中継を導入
した富山県魚津市議会を知って、自分で
調査の上、提唱したものです。このプロ
セスをネットで公表すると、他の自治体
議員にも情報伝播しました。
 4期目に議運委員長になって、やや強引
にネット中継を導入しました。導入モデル
は室蘭市議会であり、今では多くに普及し
たオンデマンド方式のネット中継でした。
自民党所属議員の主導・理解を得て、多
数決で決しました。導入後は、全員に好
評となりました。自分が提案して進めた
取り組みで、最大の事業と考えています。
浪人時代と都議秘書

 かくして、政治浪人が続くことになり
ました。ただし、今回は都議の私設
秘書の立場でした。
 世田谷区選出の阿部俊之都議(
当時)の事務所に誘いを受けました。
政治を一から始め直すには新たな
環境のほうが相応しいからとの思い
もありました。
 約3年半の間、お世話になりました
が、阿部都議の選挙はわずかに及
ばず次点でした。それは申し訳ない
ことで、「秘書失格」でした。
サラリーマンから秘書へ

 昭和58年夏、参議院選挙の結果、私
は当選者の八木大介(木本平八郎)議
員の秘書になりました。
 新党を真に支える立場でかかわりた
いと考えたからですが、自分を発揮し
たいとの考えもあります。政策秘書が
なかった時代ですので、第一秘書が
その役割も兼任するものでした。
 合わせて、党の事務局も担当する
ことで、先の混乱につながりました。つ
まり、秘書の立場と党事務局員という
役割が矛盾をきたすことになりました。

水俣病患者支援の活動

 比較的に政治運動にかかわってき
ましたが、社会体制の変革なしに、
個人の救済はないのかの疑問が起
き、公害の犠牲となった人の救援に
行動対象を向けました。
 「水俣病を告発する会」と言う会に
加わり、企業のチッソと直接交渉を
求める患者さんの支援活動を末端で
行いました。
 数年間、休日の全てを費やしていま
した。今で言う、ボランティアでした。
若かったこともあるでしょうが、体力も
強靭で、休みなく動ける時期でした。
友人の中には、東京の行動に長期間
出かける人もいました。私は、給与の
中からかなりのカンパをしていました。
原水爆禁止の運動

原水爆禁止大会に参加

 高校1年生になると、原水爆禁止の
世界大会に出向きました。関西と
広島、長崎の大会に出席しました。
あたかも、その最中に、アメリカと
ベトナムが交戦するトンキン湾事件
が発生し、ベトナム戦争が激化する
プロセスになりました。
 他方で、ソ連、中国の核実験が
問題化し始めた。それによって、
原水爆禁止の運動がさらに細分化
していくことになりました。
 こうした中で、共産党のセクト的な
対応になじめず、中学時代に入った
「民青」と言う組織からも脱し、この
種の運動から遠ざかりました。
 高校では、「社会科学研究会」と言
うサークルに属していました。
自然の脅威に親近感

幼年~少年期の体験

 幼年期は矢部川のほとりの農村で生活
していました。比較的に温和な地域でし
たが、台風の時など堤防が流域のどこ
かで決壊することもありました。
 そうした時に、堤防に大人たちが土嚢を
積み上げる光景を見ることは自分に
欠かせない行為でした。この流れは有明
海と言う豊穣の海に入ります。
 普段は、家のそばを流れる小川で川魚
を網ですくい、家の食用にしていました。
 小学校3年は同じ県内の筑後市に移転
しました。新しい友人ができました。

蜂の巣城の戦い

少年期の記憶

 九州の筑後川上流に建設予定され
たダム建設に対して、果敢に反対した
室原知幸氏の行動やアイデアが身近
に感じられました。蜂の巣城にこもり、
動物を放したり、糞尿をまく戦法は土
地を愛する心から生まれたのでしょう。
 同じアパートに「西日本新聞」記者
さんが住んでおり、よくこの蜂の巣城
に取材に行っていました。最も、その
記者さんと会話をしたことはほとんど
ありません。この記憶は、自分の社
会的関心につながった可能性があり
ます。(定かでない)
2度の衆議院選挙立候補

サラ新公認と無所属の立候補

 サラリーマン新党は2度衆議院選挙を戦い
ました。私がスタッフとして選挙をした昭和
58年佐々木清成氏の選挙、続く選挙が私
が立候補した選挙でした。他にもう1人岡田
光雄氏が立候補。善戦しましたが、所詮非
力の選挙でした。ひるまず再挑戦しました。
 昭和61年のころにはサラ新党は勢いを
失い、非力となっていました。私は無所属で
の立候補となりました。ある意味、新たな
人たちとの縁ができることになり、自由に戦
える境遇になりました。ただし、この時も
落選でした。 
ガソリン輸入プロジェクト

 サラリーマン新党の事務所に「ガソリ
ン輸入自由化・規制緩和」の考えを
示す人物が登場しました。とっぴもな
い話と思いましたが、聞き出すとその
規制は、単に「行政指導」に過ぎない
ことが理解できました。
 ただし、この当時は今以上に行政
指導の権力はすさまじいものでした。
 ライオンズ石油の佐藤泰治氏が
そのプロジェクトを実行したのですが、
日本の水際で止められました。
 この問題では、エネ庁に同行したり、
議員名で質問趣意書も作成しました。
中曽根総理の時代でした。
サラリーマンとして就業

 自分の意識は大人びていたつも
りですが、自身のことになるとまる
で設計ができていませんでした。
 高校卒業後進学の計画はなかっ
たのですが、就業のプランが明確
ではなかったのです。
 縁があって、「博多人形」の業界
(福岡では、この工芸品に業界が
存在するほどの産業でした)
その会社は、最初入った時は個人
商店の形態でした。すぐ、有限会
社になりました。 業態は、製造・卸
・小売そして輸出を行っていました。
 取引先も幅広く、よい社会体験が
できました。職人さんと仕上げの日
程を調整したり、小売店舗の店頭
に立ったり、九州一円はもちろん、
四国、中国地方から東京にも営業に
まわりました。
エンタープライズの来航

 就職した年に、米国空母「エンタープライ
ズ」が佐世保に入港しました。全国から入
港反対(阻止を訴え)の学生が九大に集結
しました。進学した同級生も佐世保に出向
き、就業していた自分には時間がとれなく、
自由な時間を持つ学生がうらやましく思え
ました。
 ボーナスをはたいて、自前の新聞を作っ
ていました。後には、各地の大学の運動と
連携する活動を、仕事の時間をぬって
行っていました。この時期ほど、お金に余
裕がある時はありませんでした。
ソ連と米国への関心

少年期の体験と意識

 私が小学3年生時(1957年)、ソ連が
人類最初の宇宙ロケットを打ち上げたこ
とに感動した。日本語のモスクワ放送を
聞き、たびたびコールサインを送ってい
ました。当時、ソ連の雑誌が何度も送っ
て来ていました。(筑後市在住)
 福岡市に越すと、アメリカン文化センター
があり、そのあか抜けした建物と図書資料
が気にってたびたび出入りしていました。
この頃は、大きな世界への興味が強かっ
たのですが、外国語への取り組みがなく、
継続性を持ちませんでした。

三池炭鉱争議と閉山

少年期の記憶

 少年期の体験や記憶の中でもっと
も大きなものは、日本のエネルギー
政策の転換となった三池炭鉱の争
議です。死者まででた紛争で労組が
弱体化していく様が少年の心にはと
らえがたいものでした。
 この頃の大牟田市は大都市の印
象を残していました。私はその近隣
の山門郡に生まれました。この大牟
田市にはサラリーマン時代に営業で
常時回るデパートがありました。